学生のときに好きだったミュージシャンのことを思い出してみてほしい。
イヤホンやヘッドホン、あるいはライブ会場の大きなアンプを通してサウンドが身体に染み込んで、あなたは音圧以上の振動が胸のあたりからこみ上げてきて、全身の毛穴をこじ開けて飛び出していくのを感じたはずだ。
スポーツに置き換えても良い。マンガや小説、映画、アート、ゲーム、漫才、あるいは珠玉のラーメン。僕たちの心を揺さぶったのは、いつだって効率化とは無縁の「余分な営み」だったはずだ。

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働き始めると「効率」が価値観のウエイトを占め始める。効率的にたくさんの仕事をして、効率的に稼ぐことは、指標としてすごく分かりやすい。
特に働き始めた頃は、たった数万円の給料の差が住む家の快適さを大きく左右し、ハーゲンダッツや1,300円のランチのようなプチ贅沢のハードルを高くも低くもする。
でもほどなく気づくことになる。前よりも良い家に住んで、良いものを食べて、ちょっと家具にこだわったりし始めるために効率を追い求めた先に、あの感動を超える何かはなさそうであることに。

私が何を格好良いと思うのか、私が何に憧れるのか、私が何に自己を投影したいと思うのか。
「本当の私」とも言えるような深い価値観に働きかけてくるのは、相変わらず無料でアクセスできるYouTubeの四角い枠の向こう側でかき鳴らされる音楽であったり、数百円で手に入るコミックスや小説であったりする。

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あなたは今、それらと全然関係のない仕事をしているかもしれない。
その中でも、マインドであったり、譲れないこだわりであったり、生み出される価値が巡り巡って遥かかなたで描く波紋であったり、何かしか自分の振る舞いが「私の憧れ(例えば好きなミュージシャン)」と根底では通じているように感じているのではないだろうか。
響き合ったときに「今日は良かった」と思えるのではないだろうか。
少なくとも僕はそうであるし、この「共鳴」が僕たちを支えてくれている側面は否定しがたいように思う。

大きな社会的課題を解決しようと取り組んでいるスタートアップは立派だ。例えば社会的マイノリティが生きやすいコミュニティを作ること、インフラや金銭的な理由で生き死にが左右されるような状況を引き起こしている地域間のギャップを埋めることは、掛け値なしに素晴らしい。
世の中をより効率的にして、その対価として莫大な収益を上げている上場企業もすごいと思う。収益の大きさは付加価値の証左でもあり、数字の示す揺るぎない結果には、説明を必要としない説得力がある。

ビジネスカンファレンスやピッチイベントでそういった面々と横並びになるとき、僕はファッションという自社が取り組んでいるドメインの切実さに気後れを感じていた時期が実はある。
何せファッションの大部分が「余分な営み」に他ならない。
僕はその当時、自分たちの取り組んでいる領域の「見方」を根本的に取り違えていた。効率性を測る定規を当てたって意味がないに決まっている。なぜなら非効率さこそがファッションの価値の大きな源泉をなしているからだ。

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僕たちが肌で感じることのできる、打ち震えるような感動の多くは、「余分な営み」が生み出してきた。
「余分な営み」を否定したら、途端に僕たちはつまらない存在になってしまいかねない。
格好良さや憧れを追いかけることはお腹は満たしてくれないかもしれないが、心を確かに満たしてくれる。
そのことに気づいたとき、僕は自分の人生をファッションドメインに捧げることの良し悪しを、かつてのように悩まなくなった。

「余分な営み」の価値は極めてわかりにくい。
でもここまで読み進めてくれたあなたには、伝わったのではないだろうか。
分かる人に伝わってくれたらそれで良い。
分かる人たちで進められたらそれで良い。
結果的に生み出された「余分な営み」は熱エネルギーや物理的なウイルスに頼ることなく、どうやってか、多くの心に作用するはずだ。