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僕は中学生の頃から純文学を好んで読んできたけれど、社会人になった2009年から突然ビジネス書ばかりを読むようになった。
マーケティングの本、広告の本、アクセス解析の本、PHPの本、組織論、セールス、デザイン、セルフブランディング、運営管理、経理、ファイナンス、ビジネスモデル、栄養学、健康、失敗学、プロジェクト管理、情報設計、交渉学、認知心理学。
ビジネスのフィールドで真剣に闘っていこうと思ったからであるし、学んだ内容を翌日すぐに活かせることがすごく面白かったからでもある。
中小企業診断士や簿記といった資格もこのときに取得した。
どんどん新しいカテゴリの仕事に踏み込み、本を頼って切り抜けてきた。
反面で限界に苛まれるようなところがあった。
70点とか80点とかは取れる。でも100点とか100点を超えられるような気は全然しなかった。そのことには目もくれずに新しいことを学び続けた。新しいことを学び続けている限り自分の限界と向き合う必要がなかった。あらゆるジャンルの勉強をしてあらゆる要素を統合できる人間になればいつかブレイクスルーするという根拠のない見通しもあった。
純文学は読まなくなっていた。純文学は読むのに時間がかかるし、読んでも翌日活かせることなんてない。純文学を読むことに時間を費やすのは惜しい気がしていた。

「祈ればすぐに救われますよ」というコンセプトが多くの新興宗教に共通しているけれど、振り返ればそれに少し似ている。ビジネス書は読めばすぐに活用できる。それがビジネス書の売り文句だ。インスタントだから思わず飛びつく。
この売り文句は反面、底が知れいていることも暗に示している。100人が読めば100人が同じように解釈できる本は、それだけの情報価値しか持ちえない。勉強熱心な人たちはみんな大量のビジネス書を読み込んで、みんな極めて順調に突き進み、みんな同じ限界に行き当たる。
ビジネス書を読めば、チームや会社単位では活躍できる。知っているか知らないかの世界なので、知っていることが価値になり、役に立てる。チーム単位だと何よりだ。
でも視点を広げて企業間、世界規模で考えると、同じことを知っている人はたくさんいるので途端に価値が疑わしくなる。僕は起業してそのことを嫌というほど思い知った。10万分売れた本に書いてあることは10万人が知っている。10万人が知っていることを知っていても革新的なことは何一つできない。
ゴミや難破船や死体のような自律性を持たないあらゆる静物が潮の流れで同じ浜辺に行き着くように、勉強熱心なビジネスマンが大量に打ち上げられる浜辺がある。大海を縦横に立ち回っていたつもりが潮の流れに揺らいでいただけだったということを、そのときになってようやく気づく。


最近「編集者という病い」という見城徹さんの著書に触発されて久しぶりに文学寄りの本を何冊か読んだ。
例えばノンフィクションだけれど、山際涼司さんの「スローカーブを、もう一球」。
ボクシング、野球、スカッシュ、棒高跳びなど、様々なバックグラウンドを持つスポーツ選手を描く短篇集で、彼らの美学にフォーカスしている。厳しい世界で、なんとなく自分の限界を自覚できて、それでもスポーツに生涯を捧げるためには、ポリシーや美学が欠かせない。
特に棒高跳びのストーリーは象徴的だった。その選手は背が高くない。背が高くないことは棒高跳びにおいて不利で、身長や走る早さを勘案すると、跳べる高さの限界は見えている。その限界に黙々と挑戦する。いざ限界を超えたとき、次に何をしたら良いのか分からなくなる。
(ノンフィクションを文学にカテゴライズすることに疑問を感じる人は「聖の青春」「スローカーブを、もう一球」「フェルマーの最終定理」あたりを是非読んでみてほしい。人の生きざまは文学足りえる。)

スポーツには直線的なところがある。勝つという明確なゴールがあり、そのために鍛えたり戦略を練ったりする。直線的であるがゆえに競争は極めて厳しい。何を思って立ち向かうかというマインドの部分は、結果がシンプルだからこそ引き立つ。直線的なはずなのにマインドが人によってまったく違う。マインドが勝負を左右するのかは分からない。でもマインド以外に拠り所はない。

ここで文学を引き合いに出したのは、あくまでもビジネス書との対比で話を単純化するために過ぎないけれど、文学は100人が読んだときにそれぞれが違う解釈をする。よく分からない。明日使える類のものではない。けれど、そういうカオスな部分でしか人は人と違うことはできない。「スローカーブを、もう一球」から何が学べるのかということは明文化しにくい。だからこそ価値がある。誰もが行き着く潮目から漕ぎ出す推進力を秘めている。
ビジネス書を否定することはしない。そこそこのところまで駆け上がる手段として有用なのは間違いない。僕は6年間も読み続けてきたのだし、これからも読むに違いない。ただ誰もがアクセスできて誰もが理解できるビジネス書は、そこそこのところまでしか連れて行ってくれない。
その先に行くためには人との対話であったり文学であったり、よく分からないことを考え続ける必要がある。6年間遠のいてしまっていた文学に、僕は活路があるような気がしてならない。エモーションとか感性とか、得体の知れないものが人に残されたバリューなのだから。

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最近「若者が結婚を敬遠している」という切り口のエントリーが増えています。結論としては「家庭を持ち、子どもを育てることが金銭的に不安」というものが大半。
結婚することは本当に金銭的なリスクにつながるものなのでしょうか。

僕は2013年末に入籍しました。色々と経緯はあるのですが、結果的には起業とほぼときを同じくして家庭を築くことになりました。
当初は僕自身も言い知れない不安を抱えていました。
「事業が失敗して妻を巻き込んだらどうしよう」
「家庭があって本当に仕事に打ち込むことはできるのだろうか」
実際に生活を始めてみてそれが杞憂であるとすぐに気づきます。

結婚しても生活コストはそんなに上がらない

まず、結婚したからと言って生活コストが上がるわけではありません。これは当たり前の話です。家賃も食費も光熱費も、共働きであれば折半することになるのでむしろ負担は軽減されます。家具家電もそんなに買う必要のあるものはないし、イケアやオークションを使えば、許容範囲の中でものを買うことができます。
子どもができてからも、試算してみると状況は変わりません。子どもの生活費は高が知れているし、当面は義務教育だし高校も公立に入ってもらえば教育費はかかりません。見えている出費としては保育や塾くらいで、後者は独学でも何とかなります。(僕は塾をほとんど利用しませんでした。)
何にせよ一時的な出費は均せば大したものにはならないしある程度コントロール可能なので、家賃や食費のような固定費がどうなるのかを考えましょう。
仮に事業に失敗しても、またサラリーマンに戻ればほとんど支障がないことが分かります。

結婚しても仕事のパフォーマンスは下がらない

次に「仕事に打ち込めるか」という論点。起業家に限らずビジネスマンはキャリア的な観点から結婚する・しないで悩む人も多いのではないかと思います。
半年くらいの短期決戦であれば独身の方が有利です。結婚すると毎日会社に泊まり込んで仕事に明け暮れるということができません。(できないと言うか推奨されないと言うか)
ただ、個人的な経験から「仕事以外何も顧みない」という状況は、続けられて半年くらいだと考えています。身体がついていかなくなってあらゆるパフォーマンスが落ちてくるからです。反面でパートナーと規則正しい生活リズムを作り、健康的な食生活を続けていると、長期的にパフォーマンスを維持して事業に取り組むことができます。(精神的な支えもありがたいです!)
家で仕事をすることもできるので長時間労働と家族との時間を両立することは可能だし、バリキャリ系の世界にどっぷりつかっていると価値観がマジョリティからかけ離れていってしまうのでちょっと街に出かけるようなことも、起業家として大事だと思っています。(「努力せよ!」「自己否定せよ!」「人脈開拓せよ!」みたいな人が作ったサービスにマジョリティがついていくとは個人的に思えません)

考えるなら「唯ぼんやりとした不安」を数値化してから考える

実際に周りの起業家には結婚している方が少なくありません。話を聞くと皆さん"倒産した際にどうするか"ということもしっかりと考慮した上で、「リスクを許容できる」という判断をしています。
芥川龍之介ばりに「唯ぼんやりとした不安」を抱えているだけでは結婚にネガティブになります。実生活を想定し、大まかにでも生活コストを試算したら案外お金がかからないことはすぐに分かります。
「唯ぼんやりとした不安」をまずは数値化する。それが許容できるかどうか判断すれば、多くの人が結婚に対するネガティブな印象を払拭できるのではないかと思います。
ビジネスでは当たり前のようになされていることなのに、私生活になるとこれが急にできなくなる少なくありません。

結婚が敬遠される理由は他にもあると思いますが、ネガティブなイメージは調味料のように撹拌して他の要素にもまんべんなく影響を与えるものだと思うので、そこに焦点を当てて考えてみました。

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僕は2014年1月に会社を設立して以来、「こうすべき」「これはしないべき」ということばかりを考えて過ごしてしまったような気がします。
起業したのにと言うべきか、起業したからこそと言うべきか、間違えるのが怖くて、人に話を聞き、本を読み、どうするのが正しいかばかりを考えていました。
そんなことをしていても成功するはずがありません。”正解"に辿り着こうとすれば、他のみんなと同じところに行き着くはずです。頑張れば頑張るほどコモディティに陥ってしまうのです。
考えに考えた事業計画書はどんどん洗練されていったけれど、それは同時にどんどんありきたりなものにもなっていきました。

この状況から抜け出す手がかりはどこにあるのだろうということを考えていて、たまたま読んでいたドワンゴ川上さんの書籍に近しいことが書かれていました。そこには「自分でもどう転ぶか分からないようなことをすべき」「読めないことをするのが最高の差別化」「希少性が価値の源泉」というような意味のことが書かれていたんです。
ロジックとしては腑に落ちたものの、僕は頭が良くないのでこれをどのように自分に適用したら良いのか、すぐには解釈できませんでした。

しばらく考えながら日々過ごしていて行き着いたのが、すごく古典的な経営理論「企業文化は模倣されにくい」というものです。
メンバー3人のスタートアップだったので「企業文化も何もない」と無意識のうちに打ち捨てていたのですが、零細企業だろうが個人だろうが、生きてきた分だけカルチャーを持っています。価値観、経験則、スキルなどが複雑に絡み合ったカルチャーを誰もが持っていて、第三者がこれをコピーすることは非常に困難です。

「企業文化は模倣されにくい」
競争力の源泉がない零細企業や個人が価値を生むためには、この埃をかぶった(となぜか僕は考えてしまっていた)経営理論を持ち出さない手はありません。
2015年の抱負に取り入れたい、たった1つの観点。それは「自分のカルチャーは何か」ということをあらためて見つめなおすことです。これを色濃くすればするほど第三者が模倣することは困難になります。


参考までに、2015年に僕が守りたいと考えている2つのカルチャーをご紹介します。

・ロックであること
ピュアであること。反骨精神をなくさないこと。人から変だと思われても自分の信念を貫くこと。いつも自分なりに格好をつけて生きること。情熱的であること。楽しむこと。アーティスティックであり続けること。わくわくするような発想を大切にすること。

・ミニマルであること
雑念や物にとらわれないこと。いつも身軽でシンプルでいること。一枚の葉のようにふらふらとどこへでも行けること。人から奪わないこと。勤勉であること。受け入れること。


明文化するとどうしても一般論のようになってしまうものの、本人が解釈できたら十分ですよね。
カルチャーを色濃くすると「人に認められる価値」を生むことが難しくなる副作用も伴います。後から必死に考えて市場とすり合わせる必要性は前提条件としてあります。

オンリーワンであること自体の価値は長くなるので論じませんが、オンリーワン要素を活かすことは大切だと思います。「2015年の抱負」にはあなたのカルチャー要素も加えてみてはいかがでしょうか。

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